昨今のアーティストへの問いかけ①「表現に責任をもて」
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あけのみつたかの表現哲学・キュレーション
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このサイトも随分長い間更新できていない状態が続いていました。
それは単に私が忙しいということだけで滞っていたわけではなく、新しい春を迎えることを待ち望んでいるという意味での沈黙であったわけです。
新しい春を待ち望み、新しい世界が開けることを待ち望み、私は静かに制作を続けているのです。
インテリアアートとアマチュアアートの問題点
このサイトを立ち上げたとき、私は「画家」という職業をぼんやりとしか理解していませんでした。ただ「絵を描きたい」という欲求と、「芸術」という言葉の意味と、その重みを説明したい、という気持ちで始めたのです。
私は一般的に言われるところの「アートの世界」と申しますか、アーティストたちの交流の輪から離れた制作姿勢を取り続けておりました。
それは先ほど言った制作活動の動機とは裏腹に「自分なりの意見を持たねば本格的な制作活動はできない」という考えがあったからです。
逆に言うならば、生半可なコミュニティに甘んじてしまうことを恐れていたというのが正直な感想です。
こういう厳しい言い方をすれば、ともすれば一部の「絵描き」の方々からは反論の意見が出るかもしれません。
それはおおよそ次のような意見ではないかと思います。
「制作に関していろいろ個人的なことをいう分には構わない、だけれども私たちは十分楽しくやっている。そうしたコミュニティを批判したり、制作態度に介入するような意見は控えたほうがいい―」こういった具合でしょうか。
確かに、趣味でやっている分にはどんな絵を描いていようと構いません。それに直接批判をいうつもりもございません。
ただ私は日本のアートが世界から見てどのように見えているかということを言いたいのです。
いや、これは俯瞰的に見た「世界の芸術の現状」なのかもしれません。
混沌とした世界で自分自身を見失うな
今の芸術は混沌の中にあります。それはアート関連の情報を見ればわかる通りです。大雑把に言えば「批評向けである」か「内在的であるか」という違いなのかもしれません。
批評向けである絵画というのは主に欧米が主軸になって動いているアート市場のことです。
世間一般的に「アートは分からん」と言われているのはこの世界のことです。批評家向けに「私はアートとはこういうものであると思います」という考え方(ステートメント)を掲げ、それに対して批評が入るというしくみが欧米には確立しているのです。
それに対して「内在的なアート」とはなんであるかというと、これが世間にあまり触れることのない「インテリアアート」であるのです。
インテリアという言葉には個人的な趣味の部分が相当多くあると思います。個人の自由にできる空間、それが「インテリア」の元の意味のようです。
私が本格的な制作活動をはじめて最初にぶつかったのがこの壁です。この違いを知らないがためにかなり苦労した部分があると思います。
ですので絵画を販売している画廊で「この作品はだれだれの系統に属していて~」といった批評を始めてしまうと場違いなわけです。
ある意味ではそうした「個人が扱うもの」に良いとか、悪いとかいう価値観はあまり介入できない面があります。部屋に何を飾ろうが個人の自由ですからね。
自分の作品が「誰に向けたものなのか」をはっきりさせる
なぜ、長々こうした話をしたのかというと、私がこのサイトで延々語り続けている「芸術宣言(ステートメント)」がどういった意味を持っているのか、誰に向けたものなのかをはっきりさせたいのです。
私はプロの画家です。画家である以上好き嫌いだけで作品を作ったりはできない立場におります。
それは「誰に向けた作品なのか」がはっきりしているということです。誰に向けた作品なのかが定まると、自ずとその方向で表現していかざるを得なくなります。
それを「窮屈だな」と感じることもありますが、それ以上に私には「私の作品を求めている人」がはっきり見えているのです。
プロの画家たちは、ともすればお互いの畑にあまり興味を持ちません。それは結局「対象にしている人間が違う」という一言に尽きると思います。
ですが私はそうした人たちにこそ、このステートメントを読んでいただきたいのです。
今まで何年も、このサイトで掲げてきた内容は、本当は「表現する側の人たち」と「それを求めている人たち」に向けたメッセージであったのです。
なぜなら、本当に芸術世界を変えようとするなら、内在的な芸術世界を変えなければ根本的な変化には至らないからです。
表現者には「責任」がある
私は今の芸術には大きな意味での「指針」を見失っていると思います。
それは「人々の心に指針がなくなっている」ことを意味します。インテリアという言葉が「個人的な空間」を意味しているということからもはっきりしているんです。
本来の芸術とは、宗教的な考え方によって、個人の心を変えることによって、表現を享受する側も、表現者自身も変わっていくことがあるのです。
まず私は表現している人たちに言いたい。
あなた方は、自分の作った作品の与える影響について考えたことがあるか。
「個人が好き嫌いで選ぶんだからいいじゃないか」という方もいるでしょう。
しかし私はあえてそういう方に言いたい。
あなた方はモナリザを前にして「好き」だとか「嫌い」だとかいう感想を超えたものを感じないのか。
あれだけ多くの人がひしめき合って眺めている光景を見て何も感じないのか。
それが後世の歴史の中で「偉大な芸術だ」と称えられた芸術であるならば、単なる「批評家向けの芸術」ではないことも分かるはずです。
あれは注文を受けて描かれたのです。ミケランジェロの「最後の審判」もそうです。「最後の晩餐」もそうであったはずです。
「誰を対象にした作品であるか」ということを言い訳にして、隠れ蓑にして、自分の間違った主義主張、うっぷんを晴らす手口に使わないでいただきたい。
プロの画家には大勢います。自分の過去の心の傷を作品に昇華させている方々、あれは「昇華」というきれいな言葉で上塗りされた「劣等感」でしかない。
あるいは「画家」という肩書に憧れてそういった業界に入っている方も大勢います。これも自身のプライドを満たすために行っている「制作活動」なのでしょう。
はっきり言って「醜い」としか言いようがありません。美しくないです。
そうした作品が居間や玄関に飾られているのを想像するとゾッとします。消費者を騙してはいけないのです。
個人の「心」次第で世界は変わっていく
私は「もっと心を自由にするようなものを数多く作っていただきたい」と言っているのです。
心にガンを作るような、そういった制作活動を改めていただきたい。そのためには個人的な「見直し」が必要なのです。心を正すことが肝心なのです。
自らの心を見て、小川の流れの中の淀んだ部分、渦を巻いて水流を遮っている部分を発見することです。
そしてその「淀み」の部分をよく分析し、解決できそうなら解決してしまうことです。もし解決できない問題であるなら忘れてしまうことです。
「これは自分に解決できない問題だ」と感じたならネチネチとそれを弄ぶのではなく、小川の流れに静かに流してしまいなさい。
そうすることで自分の表現活動にも変化が現れるでしょう。人によっては「混乱」と捉える方もあるかもしれません。
しかしそれは単なる混乱ではない。新しい世界が拓けようとしていることをよく自分に言い聞かせて頂きたいのです。
そしてその新しい世界こそ、21世紀を彩る「新しい表現」なのです。それを忘れてはなりません。
そしてその新しい表現こそ、後の世代へと受け継ぐべき遺産であり、「永遠の美」であったのです。
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