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あけのみつたかのステートメント【深層心理のテーマ】

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私は先日、9年前にこの道に入るきっかけとなったある事件を話しました。

これはただのきっかけにしか過ぎず、あまりにも表現したいテーマが膨大にある為、上記の小文で収め切ることはできていません。

それは追々、作品を通して皆様にお見せしたいと思っているのですが、正直私はこの「深層心理のテーマ」というタイトルを気に入っていません。

これは私自身の一つの「けじめの文章」であり、私の9年間求め続けたものであります。そして私は誤解を恐れず、この「けじめ」を正直に、真っ直ぐに文章化してみます。

私はこの9年間、長きにわたり「『神』そのものの表現方法」について探求し続ける者であります。

そして9年を経て辿り着いた答えが「思想性を持ち、他の人を啓蒙し得る芸術」ということであったのです。ここでいう「神」は民族的な位置づけの神でありません。これはもっと広義の存在を指し、「究極の神」を表現せんとした者の答えなのです。

私は究極の美はやはりこの宇宙を「作られたもの」として観た時に、神そのものの中に在る概念だと思われるのです。

皆さんも一度、自分の目の前にざっくりと大きな虚空があることを想像してみて下さい。全くの何もない世界です。伽藍堂の空間です。そこに意図せずして、果たして「美」という概念が自然に生まれたでしょうか。否、やはりそれは「作られた」概念であると思えるのです。

この宇宙のあらゆる概念-「光」「闇」「美」「善」「悪」「時間」「空間」「空」「雲」「海」「熱」「陰陽」-

すべては作られたのです。意図的に、何者かによって。

理由も証明も証拠もありませんしここではあえて触れませんが、それが私の実感であります。

私はこの文章で呼ぶところの「神」はそういったあらゆる「概念」を創造し、その「概念」を基として作られた宇宙を「最初から見ていた存在」のことを言っています。

そして「究極の神」はやはり何かの偶像では表すことのできない存在であると思われるのです。

例えばキリスト教でいえば地上に肉体を持ったイエス・キリストを偶像として、祈りの対象を表現しました。仏教も似たようなもので、開祖であるゴータマ・シッダールタ、釈迦牟尼仏、仏陀を中心とした如来や菩薩たちを表現した偶像があります。

イスラム教に関しては偶像崇拝を禁止しております。しかしモスクの壁にはタイルのモザイクなどで神の偉大さを表現したり、日本の書道ではありませんがコーランの聖句を使ったタイポグラフィ等で表現されています。

イスラム教が偶像崇拝を禁止しているのは、信仰の対象であるアッラー(イッラーフ)は人間として生まれたものではなく、開祖のムハンマドを通して言葉を語り降ろした存在であったことがその由縁の一つであると思われますが、もう一つの理由が「究極の神」を表現するすべが1300年前のイスラム世界においても存在しなかったからだと思うのです。

なので私はイスラム教の宗教芸術が一番自分の性に合っていると思いますし、正しいことだと思います。ただし仏教やキリスト教のように「祈りの対象」が無いので不便はしていることと思います。

このように私の言っている「究極の神の表現手段」は決してアウトローで無頼な妄想で言っているのではなく、歴史的に見てもわりあいメジャーな考え方なのです。


そして宗教的なテーマとしての「悟り」という言葉があります。

これは仏教で主に使われる言葉ですが、仏教では元来、祈りという概念がありません。ここ1000年ほどの仏教の宗派には祈祷を行う宗派もありますので全くないとは言い切るには語弊が生まれますが、大きく取り扱われなかったのは事実です。

それはおそらく開祖である釈尊自身が人間という存在をそれほどか弱い存在と見ていなかったからだと思います。

祈りによって救われる、祈りによって自らのか弱い小舟を修正する。そういった考え方を重視しなかったのだと思います。それに代わるものとして「悟り」を追い求めるよう、釈尊は説いていたのではないかと思います。

悟りとは人間の内に備わる力のことです。もっと正確に言えば「自分自身の本当の姿」を知るための方法論なのです。

そして私はこの「悟り」、あるいは「悟りからほとばしり出た思想」こそ、究極の神を表現するための方法であると確信するのです。


ここで私は、私の知りうる「人間の精神構造」について触れねばなりません。

人間の精神構造はいくつかの層に分かれています。それはその人の経験してきた様々な事柄に対する「解釈」が記録されています。これが一般的に私たちが「記憶」と呼んでいるものであり、過去の時間はすべてこの「記憶」の中に生き続けているものであります。

一つ注意すべきはこの「記憶」とは単なる大脳皮質の化学変化で記憶されているだけのものではなく、既に忘却されたはずの生まれた頃の記憶から幼少期の些細な経験、感触などもすべて記録されたものです。全て記録されています。

そして現在という時間は存在せず、時間という一点を通過している「主体」が実は「現在」と呼ばれているものです。これが私たちが主観的に経験したことを解釈している部分であり、心理学では「意識」と呼ばれるものでもあります。

また未来の時間があります。この文章で呼ぶ「未来」とは様々な選択ができる「人生」という時間の中で、収斂され、既にほとんど決定事項として固まっている、俗にいう「運命」と呼ばれるもののことを指します。

意識は過去の時間となった「記憶」と未来に経験しうる「運命」の狭間にあり、どちらの領域からも独立したものでありながら、過去の時間の影を踏みつつ更なる経験と意思決定をしていきます。

そして時間というものはベルトコンベアのように右から左へ、直線運動をしてて、その上に色々なものが流れていると捉えられがちですが、実はそうではありません。

私たちの持っている時間はもちろん、未来から過去へ流れていくのが基本ではありますが、それは時々逆流し、過去から未来の時間へ移動していく現象もあるのです。

そして私たちは何度も同じような経験を繰り返しており、それを「新しい経験」として過去の時間に刻み続けている事実があります。

ここでいう時間の逆行現象は、単に過去の時間から現在、そして未来の時間へ移動していくわけではありません。それは他の人々や社会環境等の「外的集合空間」を通過して繰り返し現れてくる現像なのです。

結局、人間は何度も同じような経験を繰り返しており、その悪夢から覚めたいと願いながらも、どうすることもできないでもがいていることが多いのです。

しかし、私たちは意思決定の権を有している存在です。この悪夢の中で何かを掴まなければならないのです。

その「何か」を、仏教では「悟り」と呼んでいるのだと思います。何かを悟らねばならないのです。その宗教的には悟りと呼ばれる「何か」は、あなた自身の人生の目的と使命を教えているものでもあります。それこそ「思想」の種であり、「究極の神」が人間に与えたギフトであり、福音でもあるのです。


長々と説明しましたが、何が言いたいかというと「人生の経験の中で掴んだ思想の種を育て、自分自身の思想、智慧、『神そのもの』を表現し得た芸術こそが次の時代の芸術のオピニオンリーダーとして登場してくる」と言っているのです。

これこそが真に人々を啓蒙する芸術であり、新しい宗教芸術であり、新しいルネサンスの産声であると信じるのです。

いつの時代も人は自分自身の本当の姿を求め続けています。人生の目的を知ることは「自分自身を知ること」から始まるのです。それこそが人生の、最初にして最終の究極の意味だと思うのです。

そしてこれそこが「21世紀の宗教芸術」であることも私は確信するのです。この確信を得るために9年間絵筆を握り続け、様々な経験を続けてきたのです。それが花開く瞬間を私は見ることはできないかもしれない。しかしそれでも、やらねばならない使命であるのです。

私はただの屋台骨の一本にしか過ぎません。舞台の土台を支える梁の一本にしか過ぎません。しかし、私はいつかきっと、この「21世紀の宗教芸術の時代」を開くアーティストたちが多数生まれてくることを願っているのです。そのための檜舞台を組み立てるのが私の今生の使命だと確信するのです。

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