今年の振り返り【制作編】
公開日:
:
近況報告、その他
Supported by
今年は小さいながらも前進できた一年でありました。
まだ芽は出てはおりませんが、新しい表現も詰めに取り掛かっており、長く研究し続けてきたプリントの技法も大詰めに差し掛かってきています。
油彩の方も大きく進化しております。これからようやく芽が出始めるころではないかと思っております。
しかし、これからさらに進化、発展していく過程においては考え方を大きく変えていかなければいけない面もあります。
それはなんであるかというと、兼業作家のような形で今までやってきたわけですが、これからはその考え方ではおそらく通じないだろうと思うのです。
作家としての岐路に立つ自分

今私は人生の岐路に立って、まったく未経験の領域に入ろうとしてます。それは結局作家としての収入や知名度ではなく、もっとその前にある自分自身への深い深い問いかけでもあるのです。
私は画家という職業は商売の考え方から行けば非効率的だと思っています。むしろ早く畳んだ方がいい事業でもあると思います。
本当はもっと割のいい仕事があることは私もよく知っていますし、その仕事に接触した経験もあります。
しかし、現実に目を向けなければならないことは、そんな些末なことではなく、はるかに遠く、未来に向けて行かなければならないのです。
なぜなら私が本格的に絵を描き始めた時には、通常は考えられないようなことがたくさん起っていたからなのです。
私が絵を描き続ける理由

最初に私が絵を描き始めたときは、それは明らかに「眼に見えないもの」が、目に見える形で私の眼前に現れてきました。
それは実感を伴っており、実体のないことは百も承知でありながら、はっきりと目の前に存在していたのです。
そしてそれは地球に今70億以上の人類がいますが、そのほとんど大半が経験できないことであることも直観されたわけです。
それは最初、薄緑色の光をともなって現れました。
そして私の絵筆の向こうに、まだ下描きでしかなかった絵の完成図をありありと見せたのです。
それはまるで「そこにこの色を置きなさい。そこにはこの色がいいでしょう」という具合に先生が手を取り足を取り、逐一指導しているようにも感じました。
私しかいないはずの部屋の中でそこには確かに「二つの存在」がいたのです。
それからしばらくは同じような現象が幾度か起こって、まだ何も描いていないのに完成図がすでに二重に見えるという現象を経験しました。
それも私が全く意図していない構図で、意図していないモチーフを描かせようとしているのです。
しかもそれが完成したのちに、全てが調和して一つの主題を描いていたのだということを私自身に知らせるのです。これは大変な驚きでありました。
全く意図しないテーマを完成してから理解する。
今だってそうなのです。
今はさすがに完成図が見えるということはほとんどなくなりましたが、夢の中や絵筆を執る中で「これを描きなさい」という”差し込み”があることはしょっちゅうです。
だから私は「一つのテーマについて絞って描く」ことが商売としての作家活動のルールの一つであることは百も承知です。知ってはいるのですが、どうしてもそのルールに当てはまらないことが数多く起きてくるのです。
内面を見つめ続けた作家の一つの結論

そして作家としての内面も大きく成長しました。
結局、絵画というものがどうして貴ばれるのかというと、「見る」ということの究極を見せてくれるからではないかと思うのです。
見るということは感覚そのものの最初の行為でもあります。つまり「見る」ことを通して人は内的な世界と外的な世界をつないでいるのです。
もっと正しく表すとすれば、外的精神世界と内的精神世界をつなぐものが感覚なのであり、その中でも特に即効性の高い感覚が視覚なのです。
このことについてさらに、突き詰めて説明しましょう。
私たちの周辺には空間というものがあります。この空間は宇宙の果てまで続いているものと思われがちです。
しかし、それは一つの視点であって、全てではありません。
もう一つの視点は「宇宙というのは内的精神と呼応して存在しているものだ」ということです。
つまり、宇宙というのは「あなたが見たいものを見せている」のであって、本当は視座を変えてば無限に見える宇宙空間も手のひらに収まるほど小さな小さな世界かもしれないのです。
つまりこの私たちが住んでいる3次元宇宙は「広大無辺だ」と思えばどこまでも広く、逆に「手のひらに収まるようなものだ」と思えばそうなるのです。
ですから視座をずらすということを理解した人には、宇宙の何百光年、何千光年離れた世界であっても、何億年、何千億年先に起こることであっても、つい今しがた眼前に起こったことのように感じることができるようになるのです。
このように空間とは、人間の2m前後の小さな肉体から見れば、外界は果てしなく広く、途方もない距離があるように見えますが、肉体と精神を分けて考えたときに、人間の精神には空間的限界は存在していないのです。
それは一瞬の中に全てがあり、全てのものは一瞬のうちに流れ去っていくものであるのです。
今の物理学や量子学と呼ばれるものが立ち入ろうとしている世界はこういう世界なのです。人もまた量子のレベルまで分解すればただの場の周波数の「ブレ」にしか過ぎないということです。
「人生は一冊の問題集」という現実

しかし、現実に今置かれている現状があります。これはいったいなんであるのかというと「今の現状の環境から学び取れるものを学ぶ」という姿勢を求められているのです。
つまり先ほど話は話は自身の精神性を自在さを説明しましたが、それより遥かに大きな存在があるということです。
結局、人間には一つの宇宙しか認識できません。しかし宇宙は、この私たちが存在している宇宙以外にも存在しています。
その総てを統括し、見守っている存在を「神」と呼ぶのか、「真理」と呼ぶのかは個人の勝手ですが、少なくともその存在はそれほどに大きな存在でありながら同時に私たち一人一人を「まめに」観察している事実があるのです。
孫悟空のように手の平を自在に駆け回ったとて、所詮は「手の平の上」なのであって、それをやさしく見守っている存在があるということも事実です。
最初に私が絵を描き始めたときは、 そういったものが厳に存在し、私たち一人一人を見守っている事実を感じました。
そうでなければこんなにベストなタイミングで、筆を執って「よし描くぞ」と思った刹那、作品の完成図を見せたりするような不可思議な現象を起こすことはできないはずだからです。
私が絵を描き続ける理由はここにあります。
つまりは「視覚というものの究極を見せよう」と思っているのです。
それが私の最終の目的であり、私が絵を描き続ける根本の理由でもあるのです。
Supported by
- PREV
- 新しい芸術の方向性とは
- NEXT
- 今年の振り返り【展示・販売編】