あけのみつたかの表現理念
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最終更新日:2017/03/22
あけのみつたかの表現哲学・キュレーション
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作品の展示や販売を始めて2年半、作品制作を始めた時から数えると4年半、あと数ヶ月すれば5年になります。
客観的に見れば非常に短い時間で駆け上がってきた、と感じられる方が多いことと思います。
しかし、制作していた本人の感覚から言うと、ゆうに10年、あるいはそれ以上の時を過ごしてきたように感じられ、感覚的に自分の年齢も数才上に感じてしまうほど、長い時間を制作に割いてきました。
それだけ下積みがしっかりしているということでもありますし、私自身が「まず「芸術とは何か」を塾解していなければ次のステップには進まない」と自戒していた部分があったのです。
販売活動なども、実際はもう少し後でも良かったのですが、まだ「画家」という職業についてよく知らない手前、社会勉強も兼ねてスタートしたというのが正直な結論です。
画家とはどういった仕事なのか
そして私は今、画家をしています。
画家という仕事は結局、他者との関わり合いの中で自分の本当に表現したいもの、自分の本当に目指していきたい表現を突き詰めていく活動でもあります。
すなわち画廊やバイヤー、観に来て下さる方々との息遣いを調和させていきながら、その中で尚「揺らがない部分」を発見し、そこを基準に作品を生み出していく営為のことを「画家」と呼ぶのです。
それこそ私のかねてから言い続けている「永遠」を表現していくことの第一歩でもあります。
永遠への挑戦
人は永遠には生きられません。必ず死が訪れます。
逃れようとあがいても、やがて枕元に迎えくるのが死です。
しかし、表現そのものに死はありません。
作品を残してきたその痕跡は、必ず誰かに、あるいは社会に大きなメッセージを残すのです。
そしてその道はやがて耕され、拡がっていき、多くの人々に理解され、「芸術」という行為によって多くの人々と、この地球という星に喜びを与えるでしょう。
その時私はその場に立ち会わせないかもしれません。しかしその広がっていく景色こそ、私の表現した「永遠」でもあったのです。
表現者としての「努力」と「智慧」
芸術とはこのように、続けていけば行くほど、発表する作品が積もれば積もるほどに、その影響力は強くなっていきます。
真に芸術家として成功するには、世界の美しさを映す心の鏡と、それを伝播せんとする行動力を併せ持たねばならないのです。
経済力や実際の制作活動に割ける時間というのは有限です。しかしその中から自分なりの表現を見出し、それを社会にお見せして、証明せねばならないということです。
それができないというのは単に個人としての努力不足か、智慧が不足しているだけなのです。
では芸術家としての努力とは一体なんでしょうか。
当然、表現を熟成していくことも大切ですが、その途中経過で単なる「表現のための表現」から脱せねばなりません。
つまり、その表現の中で自分なりの哲学を、自分なりの愛を育んでいかなければ次の段階には進めないということです。
それが芸術家としての努力すべき重要なポイントの一つだと思います。
日本独自の美意識と欧米の芸術観は繋がっている
この前私は村上隆著の「芸術起業論」を読みました。
内容としては稀薄で、全部の文章を読む必要もないと感じましたが、だいたい言いたいことは分かります。
要は村上隆は「アートで大きく成功したければ、アートの歴史に付随する哲学を持って、それを説明せよ」ということを言いたかったようです。
どういうことかというと、村上隆は「欧米で言うところの「アート」とは、その歴史的背景から「文脈」を重視する」と説明していました。
要は欧米の「アート」と日本の「アート」では言葉の意味合いが若干異なるということです。
あちらの方ではアートというのは文化であり、日本で言うところの「舞」の文化や「刀」などと同じようなものなんですね。
ですので欧米の文化的背景、村上隆流に言えば「文脈」を汲み取った作品でなければ海外で日本の芸術家は成功しない、ということを言っていました。
しかし村上隆は結局、その文脈に自らを組み込むことに躍起になるあまり、大切な部分を忘れてしまったのです。
それは「日本の文化」そのものを村上隆はよく理解せずに海外に飛び出してしまったことに尽きると考えます。
日本の文化を理解すると言っても、別に伝統芸能を極めなければ理解できないとか、そういうレベルの話ではなく、もっと日常的に感じ取れるレベルでも良かったのです。
とにかく日本人が「何を美とするか」ということについて勉強不足だったのではないでしょうか。
移ろい、朽ちていく儚い世界
日本には「アート」という文化が流れ込む以前、ずでに「芸術」がありました。
先程行った伝統芸能ももちろんのこと、花や茶道、剣舞に刀そのものの歴史、また日本画の歴史-
要約してその文化を、日本人は「わびさび」と表現しています。
「わびさび」とはつまるところ「儚きことに美しさを見出すこころ」のことではないでしょうか。
儚き桜の散る様を詠い、移り変わる四季、人と人とのすれ違い、変化する様子。
これを日本人は古来より美しいと感じてきたはずです。
それを村上隆は理解せず、単なる「アニメ、オタク文化」と捉えてしまったのです。
永遠の美とは何か
何度も私が言っているように、芸術とは「永遠を映す行為」のことをいいます。
永遠とは、捉え所のない「生き物」のようなものであり、不文律として屹立する「法則」でもあります。
その永遠を、地球上の様々な地域で、いろいろな解釈で翻訳してきたわけです。
ある地方ではそれを「絶対性」にたとえ、ある地方ではそれを「自由」に例えたりもしました。
そして日本という国においてはそれを「わびさび」で表現したのです。
欧米のアートという「文脈」の中においては、それは伝播し、拡散し、アメリカや日本にもその文化は伝わってきているわけです。
ですので欧米のアートの文脈と、日本のアートという文脈は本来繋がっているものであったのです。
特に日本では欧米の「印象派」を中心に輸入した歴史があったため、伝統的アカデミズム、つまり「リアリズム」という文化は日本ではあまり大きく流行しませんでした。
そして欧米のアート市場は未だに伝統的アカデミズムを重視するため、日本のアートというのはまだまだ受け入れられていません。
また日本という国自体に、固有のアート市場というのが確立しておらず、文明開化から未だに、「アート」というものが浮草のような文化なっている現状があるわけです。
村上隆を批判するわけではないのですが、これからの時代単なるオタク文化やアニメ文化以上のものを表現していかなければいけません。
もっと奥深い、もっと上質な、そして、世界に誇るべき日本の美意識を欧米の方々に説明できれば、日本の未来は変わっていくのではないでしょうか。
私はそう思います。
希望の表現
私はこれからの制作活動を、多くの人に与えるために続けていきたいと願っています。
多くの人に与える芸術とは、結局、観に来て下さる方々一人ひとりに熱と光を与える行為であると思います。
熱と光、それを私は「希望の表現」とでも呼びましょうか。
私達人間は、いかに偉そうなこと言っても結局、元を辿れば個人の問題になるのです。
社会の現状や国の現状も、元を辿れば一人ひとりに「希望」があるかどうかにかかっているのです。
未来に希望を見出し、明日を見つめる-
その当たり前にできる努力を、営々と続けることが重要だと思うのです。
その努力の成果がいつかしら、他の人達に影響を与え、その環境に影響を与え、社会に、国に、そしてこの地球に影響を与えていくのではないでしょうか。
ですから私は自分の表現を客観的に作っていくことなど出来ないのです。
営々と描き続けるのです。そして多くの人に観ていただくことによって「表現」するのです。
永遠に、その明瞭な地平線を見つめて、努力していくのです。
それが芸術家の使命であり、私自身の生命であったのです。
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